2006年09月17日

李登輝氏の講演原稿A〜C

前回のエントリーの続きです。

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日本の教育と私 −−−李登輝 A

    −新知識が儒家の呪縛を解いた−

台湾総督府が1895年4月に開庁されましたが、その年の7月には今の士林という所に「国語学校」が開校されました。植民地統治を教育から始めたことは世界にも例のないことです。

日本による新しい教育を台湾に導入したことによって、伝統的な書房や私塾は次々と没落し、台湾人は公学校を通して新しい知識である博物・数学・歴史・地理・社会・物理・化学・体育・音楽等を吸収し、徐々に儒家や科挙の束縛から抜け出すことができました。そして世界の新知識や思潮を知るようになり、近代的な国民意識が養成されました。

1925年には台北高等学校が成立し、台北帝国大学は28年に創立され、台湾人は大学に入る機会を得ました。直接内地である日本に赴き、大学に進学した人もいました。こうしたエリート教育の機構整備以前に、すでに医学校・農業専門学校・商業・工業の職業学校が数多く設立されており、これによって台湾のエリートはますます増え、台湾社会の変化は日を追って速くなりました。

教育によって近代観念が台湾に導入された後、時間を守る、法を守る、金融貨幣・衛生・新しい経営観念が徐々に「新台湾人」を作り上げていきました。近代化社会に於ける近代化観念の影響の下、台湾人は新しい教育を受け、徐々に世界の新思潮と新観念が分かるようになりました。

20年頃になると、台湾人は西側の新思潮の影響を受け、各種各様の社会団体を作り、議会民主、政党政治、社会主義、共産主義、地方自治、選挙、自決独立など、様々な主張をし、『日本は台湾人に当然の権利を与えるべきである!』と要求しました。

そして台湾は日本の教育の下に、民主化の要求として、政治運動の拠点となる「文化協会」が台湾人の手によって初めて組織されたのは23年のことでした。

この年には私は北部にあたる淡水郡の三芝庄に生まれました。日本の教育が私に与えた影響は、台湾の上述した様な環境と時代的意義があったと思います。

(2006年9月15日付 産経新聞)


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日本の教育と私 −−−李登輝 B

    −多感な時期、人生観に強い影響−

私は正式に日本教育を長期にわたって受けた他、家庭の事情や個人的要素が、また強く私の以後の人生観や哲学的思考、日本人観に影響を及ぼしました。1つは父の職業の関係で、公学校6年間に4回も転校し、その為、友達がなかなかできませんでした。1人の兄も故郷の祖母と暮らしていて、家では私1人だけでした。

この経験は多感な私をして、いささか内向的で我の強い人間にしてしまったようです。友達がいない代わりに本を読むことや、スケッチをすることによって時間を過ごすようになりました。

自我意識の目覚めが早い上に、この様な読書好きが、更に自我に固執することになり、強情を張って、母を泣かせたり、学校でも学友との争いや矛盾が起こったりするようになりました。激しい自我の目覚めに続いて、私の心の内に起こってきたのは「人間とは何か」、「我は誰だ」、或いは「人生はどうあるべきか」という自問自答でした。これは母がある時、私に「お前は情熱的で頑固過ぎるところがある。もう少し理性的になってみたら!」と諭してくれたことも関係していました。自分の心の内に沸き起こるものに対して、もっと自ら理性的に対処しようと考えたのです。

そのような少年にとって、古今東西の先哲の書物や言葉にふんだんに接する機会を与えてくれた日本の教育、教養システムほど素晴らしいものはありませんでした。禅に魅せられ、座禅に明け暮れたのもこの頃のことですし、岩波文庫などを通して東洋や西洋のあらゆる文学や哲学に接することができたのも、当時の日本の、教養を重視した教育環境の中に、そのような深い思索の場が用意されていたからであると信じています。

私は、日本で最近何冊かの書物を出版しました。それが政治評論であれ、文化的なものであれ、殆どこの若き時代に得た考え方を繰り返し強調し、述べたものに過ぎません。この中で今、日本で一番に関心を持たれているのは新渡戸稲造先生が1900年に英文で出版した「武士道」−日本人の精神−を解題して書き直したものです。

新渡戸稲造先生との出会いの前にも、既に多くの先哲との出会いがあったわけです。そのうち、日本だけの例を挙げれば、私が自我に悩み、苦行しようと、禅によって自己修練に励んだ時に、鈴木大拙先生の「禅と日本文化」等の著作が非常に役に立ちました。臨済禅師の流れを継ぐ鈴木先生は、この東洋哲学としての禅思想を一早く欧米に紹介すると共に、日本文化に禅思想が深くかかわっていることを詳細に述べています。

懸命に鈴木先生の本を読み漁っているうちに、明治時代における日本精神のもう1人の体現者である西田幾多郎先生に出会いました。文学の方面では夏目漱石先生の偉大な思想的貢献を忘れてはなりません。明治44年頃、ロンドンからの帰国後における「私の個人主義」を中心とした創作が、徐々に「則天去私」に移り変わる過程は本当に偉大な精神転換でした。

(2006年9月16日付 産経新聞)


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日本の教育と私 −−−李登輝 C

    −進歩と伝統築いた武士道精神−

私が初めて新渡戸稲造先生の「武士道」−日本人の精神−という本に出会ったのは、旧制の台北高等学校時代でした。武士道などというと、封建時代の亡霊のように言う人もいますが、この本を精読すれば、そのような受け止め方がいかに浅薄なものか、すぐにわかるでしょう。

そしてこれに解説を加えた私の「『武士道』解題」の中で、声を大にして武士道精神を再評価しようといっているのは、日本および日本人本来の精神的価値観を今一度想起して欲しいと祈るような気持ちで切望しているからです。民族固有の歴史とは何か、伝統とは何かということをもう一度真剣に考えて欲しいです。

文化の形成は、「伝統」と「進歩」という2つの概念を、いかに止揚(アウフヘーベン)すべきかという問題ですが、「進歩」を重視するあまり「伝統」を軽んずるような二者択一的な生き方は愚の骨頂だと思うのです。

最近の日本では、一般的に、物質的な面に傾いていると言われますが、その結果、皮相な「進歩」に目を奪われ、「伝統」や「文化」の重みを見失うことがあります。「伝統」という基盤があるからこそ、初めて「進歩」が積み上げられるのであり、伝統なくしては真の進歩など、あり得ないのです。

戦後、1946年、私は台湾人に生まれまわるために日本を離れた後、「新日本」が大きく変わったことも承知しています。そしてその変化が、大きな進歩をもたらし、今日の世界第2位の経済大国を造り上げる原動力のひとつになったことも、また否定できない厳然たる事実だと思っております。

しかし、そのために最も大切な「伝統」まで捨て去ってしまったら、それはもはや本来の意味における「進歩」ではあり得ないのではないでしょうか。

有史以来、日本の文化は大陸などから滔滔(とうとう)と流れ込む変化の大波の中で驚異的な「進歩」を遂げ続けてきたわけですが、結局、それらの奔流に飲み込まれることもなく、日本独自の伝統を立派に築き上げてきました。

日本人には古来、そのような希有なる力と精神が備わっているのです。外来の文化を巧みに取り入れながら、自分にとってより便利で都合のいいものに作り変えていく――このような「新しい文化」の創り方というのは、私は一国の成長、発展という未来への道にとって、非常に大切なものだと思っているのです。

そして、こうした天賦の才に恵まれた日本人がそう簡単に「武士道の精神」や「大和魂」といった貴重な遺産や伝統を捨て去るはずはないと私は固く信じています。

では、日本文化とは何か?その結論を言わなければなりません。私は高い精神と美を尚(たつと)ぶ心の混合体が日本人の生活であると言わざるを得ません。

(2006年9月17日付 産経新聞)


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posted by ippei_kagurazaka at 12:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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