2006年02月12日

はじめに言葉ありき

パソコンの画面を直接映写して講演する姿は今となっては普通になった。動画でさえそれほど難しい話ではない。講義で多用される先生方も多いことだろう。学生からの評判も良いという話を伺ったことがある。明るくて見やすくて,綺麗だ。何といっても,伝えたいイメージを映像として表現できるし,聴衆にとっても理解しやすいのは良いことだ。


かつては透明フィルムに白黒印刷して薄暗いOHPで投影し,必要あらば油性のマジックで書き足したりもした。カラーOHPの印刷では時折紙詰まりを起こして悲惨な目に遭った経験を持つ方も少なくないだろう。発表中のあまりの緊張からスライドのフィルムを床に落としてばら撒くというハプニングも見ることはできなくなってしまったわけだ。

私の師はかつて,色とりどりのスライドを使う発表を見ては「学芸会」だと揶揄した。その真意は見栄えだけが先行して中身が伴わないものに対する批判であり,あるいはそのかっこよく見えるだけの「学芸会」にしか目が向かない研究者達への警告であった。またその一方で,「中身」を聴衆に伝える訓練がいかに重要であるかをも私は思い知らされてきた。最近ではアニメーション効果を駆使する学生たちのプレゼンテーション能力が以前よりも向上したように見えるがどうだろう。私の目が「中身」を見通せない節穴でなければの話だが・・・ただ気になるのは,それに反比例するように言葉を駆使できない者が多くなったことだ。


そんなことを考えていた折,今週はこんな記事があった。



(2006年2月9日 産経新聞より)

入試の季節である。大学の教員は成績をつけたり,試験監督に出たりで忙しい。大学の全入時代とか大学生の学力低下といったことがいわれているが,大学間の格差も広がっており一部の私大では国語の科目から古典文を除いて現代文だけで受験させている。漢文を除き古文を除き,現代文だけにするほうが受験生が集まるというのである。学生が集まらずに定員割れになればどうしようもない。背に腹はかえられねというのだが,何とも情けないことだ。

教養教育の崩壊を今さら嘆いても仕方ないが,数学者の藤原正彦氏のいうように,国語力の衰退は国民の品格をうしなわせ,自分の国の歴史につながる意識を破壊していくことになるだろう。

戦後の国語改革は,「人体実験をやる以上の暴挙であった」とかつて国語学者の時枝誠記は指摘したが,「改革」という名の蛮行は今日とどまることを知らない。グローバル時代に英語の必要性が声高にいわれるが,日本語が読めない日本人ばかりの国は,多民族社会ではないだけに余計に不気味である。

この百年のうちに世界中の言語の90%が死滅するとの衝撃的な予言もあるが,世界九位の話者人口をもつ日本語も決して安泰ではあるまい。

子供の頃からパソコン,携帯で育ち,初等教育で書道を十分やることもないために,最近の学生達は文字を縦に書くのさえ苦手に見える。

文字の世界も,大相撲と同じく,米国出身のリービ英雄氏のような作家が,古文も含めた日本語を自在に操り注目されている。日本語の勝利は外国人作家のものとなろう。

(文芸評論家・富岡幸一郎)



古文漢文を受験科目から除く事はもとより,私は日本語力そのものの低下が気になって仕方がない。私も決して人のことをいえるほどではないのだが,「言葉の限界が思考の限界」だというように言語力の低下は創造力を蝕む最も恐ろしい現象の一つだと思っている。これは何も文芸の世界に限らず自然科学の分野でも同じである。

国際的に通用するかだのグローバルだのよく言われるが,英語だ英語だ言う前にまず日本語でしょう。日本語で表現できなければいくら英語やってもムダですから。そう感じるのは私だけだろうか?

「はじめに言葉ありき」とは聖書ヨハネ伝の言葉だそうだ。私はキリスト教を信仰する者ではないが,この際実に的を得た表現のように感じる。


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posted by ippei_kagurazaka at 17:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 教育 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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