2006年01月27日

信頼することとは・・・

のっぽさんといえばかつて教育テレビの「できるかな」に出ていたあの人。ふんほーふんほーと喋る(?)のはごんた君。後ろの声は,つかせのりこさんでしたか。懐かしいなぁ。その,のっぽさんこと,高見映さんが先日朝のラジオ番組に出ていた。たまたま車を運転しながら聴いていたのたが,のっぽさんの言葉にふと思ったことがある。今日はそこから話を広げてみる。

話の流れはウル覚えだが,確か,最近の教育に対してどう思うかといったパーソナリティーの問いに対するのっぽさんの答えにこういう言葉があった。(正確ではありませんが。)

最近の大人の人は,小さい子たちはすごく賢いということを忘れていませんか?

私は,はっとした。うちにももうすぐ三歳になる娘がいる。色々なことができるようになった瞬間,自分でできるようになった瞬間のとても自慢げな,誇らしげな様子がいつもながら可愛いのである。(親ばか?いいんです。何とでも言ってください)
いつの頃からだろう。はさみで紙を切ることを覚えた。見ていてあまりに危なっかしいので,プラスチック製の子供用のはさみを百均で買ってきて与えたのである。最初は物珍しさもあったのか,適当にその辺の新聞紙や折り込み広告を縦横無尽に切っては散らかし,切っては散らかしを繰り返していた。しかしやはりプラのはさみは切れ味悪い。大人の私がやっても,表面がつるつるの広告を切るのは至難。そのうち金属製のはさみをよこせとせがむ。危ないからダメだといっても聞く耳を持たない。泣きだす。一度泣き出すと大変だ。それこそ手が付けられなくなる。仕方なしに恐る恐る渡した。当人は楽しいのだろう。そりゃプラ製に比べれば切れ味は格段に違う。見ているこっちはハラハラするばかりだ。こうして,ああして・・・
それから幾日か幾週か過ぎただろうか。切れ端が形になっていく。「できたー!ほら見てーパパ!」印刷に沿って初めて楕円を切り出したときの喜ぶ娘の目は輝いていた。
今では引き出しの中にある金属製のはさみを誰に断ることなく,自分で出しては自分でしまう。いつの間にかそれが日常となっていた。はさみを持ち歩く姿は今でも危なっかしいが,この道具の何が危険かを既に察知しているようにも見える。親として油断は禁物だが。
ミスドのドーナツが写った切れ端が大事そうにテーブルの隅に重ねてあった。
のっぽさんの言うように子供をもっと信頼しろということだ。


そういえばここのところ受験シーズンになる度にどうも気になることがある。受験会場まで父兄が付き添う姿にである。私が大学を受験していた頃は,そういう光景に出会ったことなど一度たりともなかったが,この十数年の間にずいぶん変わったなという印象を受けるのだ。会場の入り口で必勝の鉢巻をする高校や予備校の先生方の姿は今も変わらないが,まさか一人で旅させることを躊躇った結果だとは思いたくもない。物騒な事件が多くなった今日,同じ子を持つ親としてそういう心境になるのも理解できないわけではない。

そう言えば,どこかでこんな言葉に出会った。しかし私は原典を知らない。


乳児から肌をはなすな。幼児から手をはなすな。少年から目をはなすな。青年から心をはなすな。

青年から心を放すな,か。亡き母はこの言葉を知っていたのだろうか。私は確かにこの言葉にあるように育てられてきた気がする。


さて信頼といえば,こんな記事が昨日の産経にあった。ネット上にソースなし。



日本社会を蝕む倫理教育の欠如 =忘れられた高度信頼社会の土台=

三菱UFJリサーチ&コンサルティング理事長 多摩大学学長 中谷巌

≪≪日本人の美意識とは相反≫≫
ライブドア・ショックと耐震強度偽装問題が日本社会を揺るがせている。関係者の犯罪の中身については厳密な検証が必要であるにしても,これほど堂々と人を欺き,裏切ることが日常化した日本という国の行く末に不安を抱いた人も多いのではないか。
問題の根幹は少なくとも二つある。ひとつは,この十数年,様々な分野で規制緩和が推進されてきたが,それに伴う法体系の整備や企業の自由な行動を監視するためのインフラが不十分という問題だ。
日本社会は規制による「事前チェック」の体制から,自由化と「事後チェック」の体制に移行する必要があるが,それがまだ不十分にとどまっている。これは所轄政府機関の怠慢であり,早急に「市場の番人」としての体制を創りあげる必要がある。
もう一つのより重要な問題は日本人の倫理欠如だ。「悪いことをしても露見しないならやっても良い」とか,「隙(すき)あらば人を欺いても,うまい汁を吸おう」という考え方は,もとより伝統的日本人の美意識からすれば許容できないところである。
『武士道』の著者,新渡戸稲造はこう書いている。
「武士道の本性,すなわち算術では計算できない名誉を重んじるという特質は,近代の経済学以上にはるかな真実の教えを人々に教えた」(原文は英文,奈良本辰也訳)
ただし,倫理欠如は日本固有の問題というより,人類普遍の問題だ。プラトンの『国家』には自分を透明人間に変身させる不思議な指輪を拾った羊飼いギュゲスの話が出てくる。ギュゲスは透明人間に変身すれば悪事が露見しないことを良いことに,結局,国王の地位にまで上りつめてしまう。「悪いことをしても露見しないときに,人はいかに振る舞うべきか」。これこそプラトンが『国家』で展開した正義論の核心であった。
戦後のいわゆる民主主義教育は,こうした倫理の基本について教えることを回避してきた。およそ教室では「人は何のために生きるのか」「どのように生きなければならないのか」といった哲学的話題がまともに取り上げられることはなかった。

≪≪教養養育の欠如も一因か≫≫
そのようなカリキュラムは意図的に切り捨てられたといってよい。この倫理教育の欠如こそ,日本社会をむしばみつつある病の温床であり,いま世間を騒がせているライブドア事件や耐震強度偽装事件の根本に横たわる問題ではないだろうか。
明治維新を切り開いた先人たちは,今日の日本人とは違ったようである。西洋文明を吸収するため派遣された岩倉具視遣欧使節団の若き一行は,英語が流暢(りゅうちょう)に話せたわけでもなく西洋流のマナーを身につけていたわけでもなかった。しかし,彼らの多くは四書五経をはじめとする古典に親しみ,教養豊かであった。
教養とは「人はいかに生きるべきか」といった人間存在の根元について思案することで培われるものである。彼らの立ち居振る舞いは西洋流のマナーにはそぐわなかったが,「教養が滲み出ていた」ため欧米各地で熱狂的に歓迎されたという。(泉三郎著『堂々たる日本人』)。
残念ながら,現代の日本人が立ち居振る舞いの優雅さによって,あるいはその教養の豊かさによって,外国の人たちに感銘を与えたという話は寡聞にして知らない。そういう人が皆無とは言わないが,戦後教育が知識詰め込み中心で,心や倫理の問題を教える教養教育が欠如したものであったことに責任の一端があるように思えてならない。
ここで重要なことは,市場経済を支える最重要のインフラは,市場参加者の倫理という点である。フランシス・フクヤマは著書『信なくば立たず』(加藤寛訳)のなかで,日本の経済発展を支えた最大のポイントは,日本が高度信頼社会であったことだと指摘した。

≪≪相互信頼欠けば発展なし≫≫
互いの信頼を裏切らない誠実な精神風土があったから,身内でもない人に企業経営を任すことができた。それがファミリービジネスを専門経営者による大企業ビジネスいち早く引き上げる重要な要素になったというのである。逆に,人々の間では相互信頼が欠如する場合には,取引コストがかかりすぎるために市場経済は発展しない。
ライブドア事件や耐震強度偽装問題は,高度信頼社会の土台を揺るがしかねない危うさを秘めている。日本という国を礼節と弁(わきま)えた高度信頼社会にとどめておくには何が必要なのか。これこそ今,日本が取り組むべき最重要な政策課題なのではあるまいか。

(平成18年1月26日 産経新聞 正論より)



この記事,非常に勉強になった。だが,3のぞろ目の歳の私が読みながらイメージしたことと,この記事にある「高度信頼社会」のという言葉の本質的に意味していることが一致しているかどうか,いまひとつ自信がない。


週末とはいえ時間も時間なので,今日はおしまい。


posted by ippei_kagurazaka at 23:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 教育 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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